「源氏物語 蜻蛉」(紫式部)

純真なる感覚こそが浮舟の魅力

「源氏物語 蜻蛉」(紫式部)
(阿部秋生校訂)小学館

浮舟が行方不明となり、
宇治の山荘は混乱する。
入水の線が濃厚となり、
遺体なきまま侍女たちだけで
浮舟の葬儀が行われる。
浮舟の死に落胆と
懐疑の念を抱いている薫と匂宮は
互いに相手の胸中を探り合う。
薫は深い内省に沈む…。

源氏物語第五十二帖「蜻蛉」。
前帖「浮舟」
命を絶つ決意をした浮舟ですが、
本帖ではすでにそれが決行され、
その後の混乱を描いています。

姫君の行方が知れない。
都ではあり得ない話であり、
いかに浮舟邸が
管理不十分な状態だったかが
うかがい知れます。
人がいないのです(本帖中に侍女が
次々に逃げ出していることを示す
一節が盛り込まれています)。
事態の収拾を図っているのは
古女房である右近と侍従だけです。

その右近の態度が気になりました。
「今は限りの道にしも
 我をおくらかし、
 気色をだに見せたまはざりけるが
 つらきこと」

(死出の旅に私を残し、
 死ぬそぶりさえ見せずに
 旅立つとはあんまりな)。

姫の死を嘆くのは女房として人として
当然なのですが、
そもそもの原因をつくったのは
この右近です。
前帖で薫と間違えて
匂宮を招き入れたのは彼女の過失
(やむを得ないにしても)であるし、
また、その後むしろ積極的に
匂宮を手引きしたのは軽率の限りです。
さらには、浮舟に薫か匂宮、
どちらか一方に決めるよう迫ったのは
彼女を追い詰めたも同然なのです。
なぜ右近はそうした自らの過ちを
振り返らないのか?

おそらく浮舟と右近との間には、
男女の関係についての感覚に、
相当な隔たりがあるのだと
考えられます。
右近はこのような
男女の三角関係について、
罪も恥も感じていません。
当たり前のこととして
捉えているのです。
そしてそれは右近だけの感覚ではなく、
当時の都人全般の
感覚だったのでしょう。

それに対して極めて潔癖である
浮舟の感覚は、
二人の男の間をさまようことなど
耐えられなかったのでしょう。
この純真なる感覚こそが
浮舟という女性の魅力であり、
当時の読み手はこうした浮舟に対して
新鮮な感動を持ったのかも知れません。

それにしても、
心は薫に寄せていても、
身体は匂宮の熱情を
忘れることができない。
宇治三姉妹の末娘・浮舟に、
魂と肉体の乖離という
現代文学にも十分通じる主題を
背負わせたあたり、
やはり紫式部は才女です。
日本の文学は源氏物語に始まり、
そして源氏物語で
すでに完結していたのです。

(2020.12.12)

Anja🤗#helpinghands #solidarity#stays healthy🙏によるPixabayからの画像

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